浄土寺

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家康と按針家康と按針

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住職の法話

第三十世 住職 逸見道郎 (へんみ みちお)住職
ようこそ浄土寺へ
現代は「心の時代」と言われています。一昔前と比べ、格段に便利な生活が送れるようになった一方で、地域社会や家族の絆が崩壊し、自殺者や孤独死が急増しています。経済効率を優先し続ける社会への警鐘の思いが、この「心の時代」という言葉に込められているのではないでしょうか。
言うまでもなく、仏教は「心を大切にする教え」です。しかしその教えを伝えていくお寺が「心を大切にしましょう」と唱えているだけでは意味がありません。浄土真宗は、開祖 親鸞聖人が身をもってお示しになられたように、人々が生活する中で教えが伝わっていきました。お寺が普段から、共に集い支え合う「心の拠り所」となってこそ、教えも伝わっていくものと考えております。
浄土寺では門信徒の方だけでなく、様々な機会を通じ、広く多くの方々にお寺に集っていただいております。いま現在、浄土真宗の門信徒でなくても、仏教に関心のある全ての方に開かれております。住職である私の名字と地名が同じ逸見であることからお分かりのとおり、浄土寺は古くからこの地の中心的な役割を果たしてきました。
良き伝統を大切にしつつ、人々の様々な苦悩や問いに応える今日的寺院となるべく、皆さんと歩んでおります。どうぞお参り下さい。

闇と光

 「闇と光」について興味深い話を読んだことがあります。それはその本の著者が子どものころ、『少年倶楽部』か何かで読んだものらしいのですが、こういう話です。
 何人かの人が漁船で海に釣りに出かけ、夢中になっているうちに、みるみる夕闇が迫り暗くなってしまった。あわてて帰りかけたが、潮の流れが変わったのか、方角がわからなくなり、そのうち月も出ないため暗闇になってしまった。必死になって松明をかかげて方角を知ろうとするが、見当がつかない。そのうちに、一同のなかの知恵のある者が、灯を消せという。不思議に思いつつも気迫に押されて消してしまうと、あたりは真の闇である。しかし目がだんだんなれてくると、全くの闇と思っていたのに、遠くの方に浜の街明かりがぼーっと見えてきた。そこで帰るべき方角がわかり、無事に帰ってきた、という話です。
 この話を読んで、方角を知るために一般には自分の行く手を照らす灯を消してしまったのが、非常に印象的だったというのです。
 私も実に示唆の深い話だと思いました。といいますのは、私のお寺にはさまざまな悩みを抱えた方が相談にいらっしゃいますが、必ずそれぞれにそれなりの灯をもってみえるからです。そしてほとんどの方が、「私もできるだけのことはしているんです」とおっしゃいながらも、どうしていいかわからず、おろおろしながらお寺にみえます。
 そんな方々に対し、ずばり明快な答えを出して差しあげることは、いくら期待されてもできません。というのは、具体的な悩みがあってきたはずのその人自身、何が本当の問題であるのか、何が不安なのか気づかないでいる場合がほとんどだからです。僧侶である私が「これが原因でしょう」と指摘するのではなく、本人が自分に向かい合い、絡み合った紐をほどくように、じっくりと問題に気づいていただくことが大切です。そのためには、目先の灯は消してもらったほうがよいのです。
 しかし、ただでさえ不安にかられてきた人に、頼りにしているわずかな灯さえ消しましょうといえば、もっと不安になってしまうでしょう。その人が依りどころにしている灯は、学歴だったり、地位や財産、名誉や健康だったりします。それをいきなり「そんなものは当てになりませんよ」といっても、なかなか消せるものではありません。しかし、私はそうした不安を抱えた方々とともに悩みながら、励まし合いながら、「仏法」という灯、阿弥陀さまの光を依りどころにしていきましょう、と伝えていきたいと思っています。
 目先の灯は、やがて油がつきれば消えてしまうでしょう。しかし仏智の灯は、消えることのない確かなものです。その確かな光に遇って、それぞれが自ら目先の灯が必要ないと気づいていくことが大切だと思います。

本願寺出版社発行「心に響くことば」(平成13年)
著者 逸見道郎(住職)

浄土寺家紋



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